2008年5月19日月曜日

日常から考える資本主義の弊害


Japanese People Work Too Hard-Damn Funny Pictures

このごろ電車に乗ることがますます億劫になってきた。だから極力、徒歩や自転車やバイクで移動するようにしている。でも雨の日や遠距離はさすがに電車で済ませたい。それに道路上だって感じることは電車のときと同じ。つまり、人々の考え・行動が過度に自己中心的で、それが嫌でしようがないのである。

・電車から降りている人がいるのにずんずんと乗り込む人
・上り下り/○側通行が明示されている階段や通路を平気で無視する人
・傘を斜め後ろ(下)に向けて階段をあがる人
・狭い通路やホームなどで横に広がる集団
・電車内で電話、音漏れヘッドホン
・脚伸ばし、脚おっ広げ

挙げればまだまだキリがない。ただ、根底で共通しているのは「自分さえよければ」。これに尽きる。そして「みんな急いでる」事もそれに連なる大きな要因の一つだろう。

しばらく地方にいて東京に帰ってくると、まず人の歩く速さに驚く。自分は以前、一日もすればその流れに慣れていたけれど、最近はそうもいかなくなってきた。中心部の電車はたいてい5分前後で次の電車が来るし、朝の通勤時なんか2・3分で来る。それでも駆け込む人たち。その何分間でさえ無駄にできないほど忙しいのかと思う。

ここで今日の仰々しいタイトルにつながるわけ。仮にそれほど忙しく、まさに分刻みでやる事があるとするなら、それはまさに生産性向上の追及の極地と考えることができる。そうではない、その何分で、ぼーっとしたり休んだりゆとりの時間を持ちたいのだ、というのも上に同じだろう。

横に並んでだらだらと歩く若者たち、駅を走り回る子供たちについても考えてみる。これは親のしつけに因るところが一番だ。共働きで子供と電車に乗る機会なんてほとんどない。それが理由ならまさに資本…とまあこれはコジツケだとしても、近頃はその親ですら「ベビーカーを押してるから特別なんだ」とばかりの態度を見せる人も多い。先が思いやられるのは確かだ。

積もった不満が多いらしくグチも止まらないのだけれど、要は周りのことを考える余裕がないほど自分のことに精一杯、または自分に(のみ)合理的に行動せんとする無意識は資本主義の弊害なのでは、と考えたのである。上の写真のように疲れきった人をよく目にするところなんかもさ。

ここで提案。と結局は、相手のことを考える余裕をもとう!に集約されるわけだが、たとえば乗車するとき、こうすれば誰も嫌な思いはしないんじゃない。と考えられる意見をいくつか

・降りる人が先。基本中の基本。
 降りる側も押さない程度にさっさと降りる。
 降り遅れても乗ってくる人を押しのけずに詫びをいって通してもらう。
・乗り込む人は、なるべく電車に沿う。
 特に階段付近は降りた人が通れるスペースを最大限つくってやる。
・ドアの両端は少し空けておく。
 降りる人を通すためにドア際の人が一旦降りきたとき用。
・原則先着順で乗り込む。先に待っていた人から。
・老人、障害者、何やら大変そうな荷物を持ってる人など、先に譲るべきだと思った人がいた場合はこの限りではない。紳士は女性を先に。
 自分の後ろで待っている人がいれば、譲るのは一人が限度だろう。
 もちろん譲られたと察知したらできるだけ早く乗り込む。
・満員電車に乗り込むときはドア際の人に軽く一礼を。
 押し込みゃ入りそうだ、などと考えてはいけない。
 そんな時は次の電車、どうしてもなら「すいません」くらい言おう

電車乗車時のマナー?いや、そんな当たり前のこと…な方がたくさんいらっしゃれば嬉しいんですけど。仕事/式典/レストランでのマナーを知る前に、まずは日常のマナーじゃないっすかね

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